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『仕事の意義と意味』

5月28日(土) 雨

先日、前田課長からの1冊の著書『働く君に贈る25の言葉』を承り、約190頁余り有りましたが本日午後に早読し、久しぶりに他者の感性に触れた感じがしました。

共感する点が多く、異論な点もありましたがとても勉強になりました。こういった自己啓発本は20代半ばに多数読み漁ったので、懐かしく感じます。

20代半ばに勤めた会社で、初めて管理職を任せられ、その期待に応えるべく、自己を成長させようと、その力量の不足分を教授頂ける書物を探したものです。あの頃は、ほぼ毎日、朝6時半頃から夜は11時半くらいまで働いていましたし、その間、まともな休憩もなければ雑談をしている間もない程でした。休みも月に3・4日程度でしたが、その休みの日に啓発本を読んだり、自宅で(当時)ワープロを駆使し、事業の計画書や業務上必要な書類を作成したりと、休みは単独で行える仕事に没頭していました。人生でおそらく一番、仕事を全力でしていた時期だと思います。

思えば大変な時期でしたが、あの時期(年齢)に、そうした経験期を迎えたことが、現在にいかされていると振り返り感じます。

18(歳)で、社会人となり、以降20代半ばまでの期間は、『仕事』というものに対して、「何か仕事をしていないと仕方ない(世間体)から。」とか、「とりあえずある程度の収入はいるから。」とか、「将来(結婚)とかを考えると、ちゃんとした職についておかないといけないから。」などといった程度の感覚で仕事をし、また転職先を探していたものでした。

今、時は流れて『仕事』というものに対する自分の“価値”は大きく変わり、今では「生活をしていく上での資金(収入)を得るため」はもちろん、「人生という大きく長い道のりにおいて、自己を成長させる一番の場所であり財産」でもあります。

僕はよく人に「仕事は社会人にとっての学校である」と称することがあります。

学生時代は超受け身な状態で、学校という場所に行き、所定の席に着くと、科目毎に自分達を指導することを目的とした教師が来てくれ、自分たちに指導・教育を行ってくれるので、自分たちは一方的に受け入れる側として、授業に参加していれば、差異こそあれ一定の学問を学び、習得することが可能です。

学習塾等も同様にある種“超受け身”の状態と言えるでしょう。

僕は、この”超受け身”学習(姿勢)こそが現在の日本のマンパワーを失墜させている要因のひとつであると感じています。

学生時代に優秀で高学歴だった人が、社会人となり会社で勤務することになったとたん、全くといってよい程、自己の能力を発揮できず、また成果も残せずに、転職を繰り返したのち、フリーター・ニートになりゆく様は、決して少なくない路となっています。

あれほど優秀で高学歴だった、記憶力、学習力等に優れた人が、どうしてそう難しくもない仕事であっても、学術では劣っていた者に追い越され、また自身も期待には程遠い成果しかだせないでいるのでしょうか?

僕はあくまで個人的な考えとして、「仕事の意義(意味)、広い意味では生きていく上での職業の意義を理解していないからである。」と捉えています。

これは、これまで多くの人事面接及び部下と接見させて頂いた中で多分に感じたことでもあります。

両親が子供の将来を案じ、塾に通わし、家庭教師をつけ、高い学歴に期待と安堵の気持ちを頂き、子供もその期待に応え、一流校に合格、卒業したのに、社会に出たとたんに、自身の進むべき道が見えなくなってしまっているのです。

〇〇という職業で、〇〇といった仕事がしたい。〇〇と言われるようになりたい。〇〇の役職につきたい。など、明確な目標があり、その為には〇〇大学を卒業しなければならない。とか、〇〇高校に入らなければならない。ではなく、とにかく高学歴!ありきで学問に励んだ人に多くみられる傾向であると感じています。

これは社会に出てからも同じで、「仕事の意義や意味」を、十分に理解・把握出来ていないと、例えそれが若年者と言われる世代でなくても、40代を過ぎたあたりから職を転々とし、50代になり子供が自立した頃には熟年離婚し、仕事にも情熱や責任を持てないまま、「とりあえず生活が出来る程度の収入があれば・・・。」と仕事を探している一定の実績のあるご年配の方と数多く接見してきました。

それもひとつの人生ですから否定することは失礼なことではあるのですが、ただ、お会いした際のそういった方の顔色は決してお世辞にも良いとは言えないですし、魅力的なものを感じることもありません。

どうせなら人生全体を捉えて「幸福な道」にしたいと考え、そうする為には、”受け身”ではなく、可能な限り自己の人生における目標(自分にとって何が幸せなのか)を明確につかみ、それを達成するためのより具体的な手段を講じるべきであると考えています。例えその目標が達成しにくい、または達成する過程であったとしても、その過程で経験することは多くの財産となるはずであり、その経験こそ人生の終焉に「幸福を感じる財産」になるのではないかと感じています。

ここで言う経験とは、人生の過程で出会う「人との出会い」であり、「仕事上の困難を乗り越え達成した目標に対する達成感や自信」などもそれにあたるでしょう。こうした人脈や困難を乗り越えた実績は大きな財産であり、きっと幸福の財産となりうると感じています。

人生の終焉を迎える際になって本当に、「何が人間にとって幸福であったのか?」を知ることがあるのかもしれませんが、渦中の僕は、ただただ今、見える景色を信じながら自身の人生における「仕事の意義や意味」を深く考えつつ、「人間の求める幸福」についての探究を続けていこうと思っています。

 

・・・・・ 前田課長から良い著書をお借りしたので、今回は対抗して、それらしいブログにしてみました。(慌てて打ったので、誤字あったらすみません。)

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